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2002年を迎えて
パチスロに限界(当時24〜25歳)

2001年の目標をあっさり達成してしまい、パチスロはほどほどにして、新しいことを探しているのだがこれがなかなか見つからない・・・

株に興味をもち、図書館で株の本を借りに行く日が続く。そういえば母親が昔、証券会社に勤めていたので、自分からはあまりかけない電話をすると、株の本を送ってくれることに。

だけどサッパリわからず投げ出してしまいました。


母親の死
今でも後悔(当時26歳)

父と母は別居中でした。
そんな中、父親から電話がかかってきました!母親の体調がよくないらしい。
母親は昔から高血圧で体がよくなかったです。すべて自分が心配を掛けたせいだと思っています。だからと言っちゃなんですが、罪滅ぼしまではいかないけど仕送りをしていました。

新幹線で向かっている途中、父親からの電話で『お母さん死んだらしい』いう通達がありました。
あまりにも急な出来事でした。

母親の部屋を掃除していると昔の日記が出てきて、そこには『今日○○と買い物に行きました』、『今日は○○がカブトムシを捕まえてとても喜んでいました』といった自分のことしか、つづられていない日記が出てきました。自分が愛されていたと実感した瞬間、目から涙があふれてきて、生まれて初めてこんなに泣きました。

近くに俺が居てやればこんな事にはならなかったのに・・・(後悔しました)

部屋がグチャグチャで友達にも片付けるのを手伝ってもらいました。
その時に助けてくれた友達のことは忘れません。


悲しみを乗り越えて
ダラダラとした生活(当時26〜27歳)

自分の中で母親の死は封印して、思い出さないように努力しました。ほとんど仕事をやらずに貯金で遊んでいました。
今考えると母親を忘れるために、遊んだりしていたのかもしれません。

そういう中で知り合った人が居ます。(ここでは先輩と呼ばせてもらいます)
先輩はお店を経営していて、福岡にもお店をオープンするので来ないかと言われました。

当然、何もしてないのでその場で行きますと言いました!!!


2回目の福岡
ラーメン屋で倒れる(当時27歳)

お店をオープンするということで、手伝いに行った時のことでした。

東京から飛行機で福岡まで行き、仕事だがワクワクしていましいた。お店をオープンするのでビラ配りや、周辺の調査などセッセと働いていました。

夜は先輩が色々美味しいものを食べに連れて行ってくれて、仕事も苦じゃなかったです。

それがあんなことになろうとは・・・

ラーメン屋で突如わけの分からない出来事が起きました。最後までスープをすすったその瞬間、突然自分の体が制御不能になり痙攣を起こしました。そのまま気を失って隣に居る先輩に倒れこみました!
初めて救急車に乗りました。(覚えていないけど)
                           
そして地元の病院に運ばれ、一泊することなったのです。人生初めての入院でした。「CT」の結果、脳に何かがあるらしい。急いで東京に戻り紹介された大学病院に行きました。(先輩がついて来てくれて心強かったです。お店のこともあったのに)

なれない検査をやらされ,即入院手続きをすることに。

なんと自分の頭に腫瘍があるそうです。「脳腫瘍」と呼ばれるもので、いわゆる脳の癌みたいなものです。


初めての入院(2003年12月9日)  
星細胞腫(当時27歳)

MRI」の結果「星細胞腫」が左の大脳にあることが分かりました。右脳を採ると左半身に、左脳を採ると右半身に影響がでるみたいです。自分は右利きなので何で左に腫瘍があるのかと、この時は思いました。

父親と一緒にテレビでよく見るシーンの、小さな部屋に連れて行かれ画像を見せてもらいました。そうすると福岡で仮に撮った「CT」よりも、すごく鮮明に影が写真に写っていました。
先生にいろいろ説明されました。

自分の「星細胞腫」は「グレードU」が90%でグレードVが10%くらいと言われました。

いまいちピンときませんでした???

初めての手術

六人部屋(当時27歳)

本格的に入院することになりましたが、周りには自分より年上ばかりでどういう話題をしたらいいか、サッパリわからないです?そこで入院したことを友達にメールで知らせると、芋づる式にいっぱいの友達が来てくれた。いい友達ばかりで(毎日誰かが来てくれた)退屈はしなかったのですが、色々物を持ってきてもらって、逆に申し訳ない気持ちになってしまいました。

すぐに向かいのおじさんとも仲良くなり入院生活を満喫していました。ただ夜中のイビキには何回も起こされたことがあったけど・・・

病院の食事も普通に美味しいし何の問題もなく手術日を迎えました。喉に麻酔の管を突っ込んだ瞬間に、記憶がなくなった事を覚えています。【2003年 12月15日のことでした】

このあと「脳腫瘍」の恐ろしさを知ることになります。あまり考えずに手術に臨んだ自分は完全にナメていました。

手術は6時間にも及んで無事に成功しましたが≪話すことも、右半身を動かすことすら出来ない≫最初の一週間は地獄でした。

言いたい事も言えないので(点滴の針が痛いってことも言い表せず、ずっとアウガァー、アウガァーと奇声を発したり、鼻が詰まっていてもかめないので暴れたり)ほんとに辛かったです。それでも父親とまわりの親族に助けられて(ご飯を口元まで運んでもらったり、オムツを換えてくれたり)ほんとに助かりました。

術後、知り合いが来てくれて、ベッドの上で話したいし、動きたいけど何も出来ない自分に、その場で泣いてしました。


リハビリ

回復力(当時27歳)

病院でリハビリ漬けでしたが、信じて頑張りました。一週間くらい経った時、かなり回復はしましたが運動神経と言語と記憶力が全然本調子じゃなかったです。先生が言っていたとおりの症状になりました。先生は「一過性」だから大丈夫だといっていましたが、このままだったらどうしようと何度も考えました。

でもあんなにみじめだった自分がこんなに凄いスピードで回復するとは思っていませんでした。

2週間くらい経って、まだまだ退院できる状態じゃないけど、病院で年を越すのも嫌だったので、先生に無理を言って退院させてもらうことになりました。
退院してからも少しの間、リハビリにも通ったし、毎日の何気ない行動が全てリハビリになりました。買い物をしてお金を出そうとしても思うように出せなかったり、まだまだ自分の言いたいことを言い表せない状態が続きました。

そんな中、親戚の伯父さんから、家でゆっくり治さないかと連絡がありました。自分も一人暮らしで心細かったのもあったので、行かせてもらいますといいました。
その伯父さんには娘が3人いて、たくさんの孫が来ていました。
最初のほうは全然喋れなくて(喋りたいけど言葉がなかなか出てこない)子供たちに恐がられていました。でも最終的には仲良く喋れるようになり、みんなに○○お兄ちゃんと呼ばれるまでになりました。一週間くらいでしたが、これもいい経験になりました。

伯父さんのファミリーに感謝です


お爺ちゃんの死
お婆ちゃんには隠し通す(当時27歳)

手術後一ヶ月くらい経過した時に、また不幸な知らせがありました。それはお爺ちゃんが死んでしまったのです。
お爺ちゃんとは小学校までは、大型の休みになると遊びに行っていて、とても可愛がられていました。けっして怒らない優しいお爺ちゃんが大好きでした。
その人が老衰とはいえ、死んでしまって、とても悲しかったです。

そして何よりも悲しかったのはお婆ちゃんだと思います。娘に先立たれ(自分の母)、お爺ちゃんにも先に逝かれて、本当に寂しいと思います。
だから自分が「脳腫瘍」なんてことは言えません。入院してた時も父親側の親族にしか言っていませんでした。

自分は昔から坊主はあまりやった事がなくずっと中〜長髪でした。その自分がいきなり坊主で母親側の親族はビックリしていました。でも手術したなんて言えないので、ちょうど年明けだったので『気分変えようと思って切った』と言いました。
お坊さんがお経を唱えている時に、お爺ちゃんの思い出が頭に蘇り(虫・亀・魚・ザリガニなどを捕まえに、いつも二人とも泥んこになっていた)大泣きしてしまいました。

ここでもお爺ちゃんから愛されていた事を実感しました。


手術から一ヶ月〜二ヶ月後
煙草・酒(当時27歳)

手術から一ヶ月ちょっと経った時、友達が引越しをするから手伝ってくれと言われて、普段お世話になっている友達なので気軽に手伝いに行きました。

友達の家まで自転車で向かったのですが、道に迷ってしまいました。方向感覚はいい自信があるし、何度か家の近くを通っているのに、どうして思い出せないのだろう?くやしかったです。記憶もまだまだです。普通なら25分で着くところが、迷いながら45分もかかってしまいました。

普段は重いものは持たないので、順調に右半身も回復していると思っていたのですが、引越しの作業が始まって痛感させられました。重いものを持ったら右半身が思うように動きません。タンスなど運ぶ時に、ここ一番の踏ん張りが利かず、あまり役に立てなかったです。そんな自分にイライラをつのらせていました。友達も自分の事を感じ取っていたみたいです。結局軽い物ばかり運んでいました。引越しを手伝ったお礼に焼肉をおごってもらいました。

100%回復には、まだまだだなー。

そして二ヶ月くらい経った時に、自分の体がようやく目覚めつつあるところまできました。(85%回復)そしてその余裕からか、止めたはずの煙草を吸ってしまいました。ここから一年くらいは煙草を止めたり吸ったりが続きました。お酒も飲みだしたのですが、もともとお酒は好きではなかったのですぐ止めれました。

そして退院後の初サーフィンに行き、このあと調子に乗った生活に戻ってしまいました。(90%回復


やりたい事が見つかるが・・・
パチスロで食いつなぎながら(当時27〜28歳)

最初はやりたい事が見つかり、それを友達と進めていましたが、うやむやになり途中で投げ出してしまう事になりました。
そして退院後に初めてパチスロを打ちましたが、この機種が史上最悪にイライラする機種でした。自分なりに分析しましたが手術をしてから、イライラした時は気持ち悪くなることが多く、何かしらの影響が出ていると思ういます。だからといって平然を装って打つことは出来ますが、心の中では多かれ少なかれアドレナリンみたいなのが出ていると思います。これが危険なんだと思っています。
この後、発作が頻繁に起きるようになり病院へ行く事になりました。(特に暑いところは苦手で熱い食べ物を食べる時も気を付けないと発作が起こってしまう)しかし曜日が違ったので担当医も違う先生になってしまいました。自分が悪いのですが担当医は変えないほうがいいと思います。やっぱり最初から自分の事を見ている先生が、一番自分を理解していると思います。
そして「MRI」の結果が出ました。

史上最悪にイライラするパチスロの機種が原因と思われるのですが再発でした。(自分なりの解釈です)


再入院(2005年5月21日)
今回は手術出来ない(当時28歳)

先生の説明が始まると腫瘍の部位は進行していて、そこを採ると言語と右半身にかなりの影響が出てしまうと言われました。結論は手術はせず「放射線療法」と「化学療法」をやることになった。

今回もいっぱい友達が来てくれました。なかでもポータプルDVDはかなり助かりました。そんなこんなで今回も有意義に病院生活を送れましたが、これから先どうなるか心配でした。

薬漬けに点滴に放射線の毎日でした。入院中何度も「痙攣発作」が起きました。

帽子無しでは恥かしくて外に出られないくらい、髪の毛も抜け落ちてしまいました。

そして数回の放射線を残して通院でOKと言われ、退院することになりました。


テモダール「テモゾロミド」
他の病院へ(当時28〜29歳)

この頃はまだ「テモダール」が承認されていなかったので、高いお金を払わないと買えませんでした。(保険が利かなかったが、2006年9月15日保険適用となる)

自分はテモダールの対象になると思っていたので「テモダール」を扱っている病院に行きました。何度も相談しに「MRI」を撮るたびに行きました。
だけど『あなたの場合は「MRI」の状態もよいし、体の調子もよいらしいので今は飲まなくてよいでしょう』、『今度、腫瘍が大きくなり始めたら考えましょう』と言われました。

早くテモダールを飲みたかった気持ちもありますが、先生が言っているのだからそれに従がうことにしました。


パチスロとの別れ
また調子に乗る(当時29歳)

2006年、一月の途中から体の調子がよいので、パチスロを再開することにしました。しかし四月にに入り様子が激変してしまいました。
放射線」をあててからも「痙攣発作」は月1回くらいで起こっていました。しかしちょっとパチスロを打つと気持ちが悪くなって、発作が起こりそうになってしまいます。先生に聞いたところによると(チカチカしている)(うるさい)(煙草の煙り)は発作を誘発するらしいのです。ドンピシャです。これではパチスロどころではないです。(お金を取るか体を取るか・・・体でしょ)

パチスロ生活を諦める事にしました。正直自分の一番誇れるものと言えば1?歳の頃からやっているパチスロが頭に思い浮びます。そのパチスロとこんなかたちでお別れするとはつら過ぎます。

やはり再発した時にパチスロを封印しとけば良かった。自分が言いたかったのは

        脳腫瘍をなめたらアカン ってことです!

バイト生活
発作の恐怖と闘いながら(当時29〜30歳)

パチスロでだいぶ体調を悪化させてしまい、いままで数えるほどしかやったことのない、アルバイトを探すことになりました。一度に色んなことをすると頭の回線がおかしくなるので、条件は単純作業で人に気を使わないバイトです。
単純作業で一人でやるバイトが見つかりました。条件は全て一致していたと思っていたのですが、外勤だったので自分が暑さに弱いことを忘れていました。暑い時期だったので案の定、何度も発作が起こって倒れてしまいました。
この後も幾つかバイトをやりましたが、病気に気を使いながらやるバイトばかりで全て辞めてしまいました。

発作が起きる時はチョットだけ予兆みたいなのがあって、右目がピクピクし始めます。これが15〜60秒くらい続いて発作が起きます。もちろん立っている事が出来ないので右目のピクピクしている、わずかな時間に横になれる場所を探してそこに座ります。出来るだけひと気のない場所を探します。(救急車を呼ばれても意味がないなので)
内容はまず右手が30cmくらいリズミカルに上下し始め、いう事が利かなくなり、数秒後には右足も同様の事が起こり、最終的には右半身全体が操縦不能に陥ります。もちろん喋れません。そして20分〜30分くらいしたら体も言葉も元に戻ってきます。

発作が起きている時の一番しっくり来る例え方は、息をずっと止めている感じです。かなり苦しいです。

 
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